LONDON COLUMNING

ロンドンから音楽事情を発信していきます。音楽以外もたまにはね。

Colum #「三宅洋平」と「愛し合ってるかい?」

日本ネタが続きますがご容赦ください。先ほどの話を書いている最中に、「三宅洋平」という男について、フェス仲間と少し議論したことがあって、どうしても自分の頭を整理したくて文章に起こすことにしました。

 

特定のアーティストを批判しているわけではないが、一般的にライブのMCでの「愛してるぜー」が僕はどうも苦手である。もちろんそのアーティストのライブを観にいっているわけで、基本的にはそのアーティストなり、その音楽を愛している気持ちは多分に存在する。そんなアーティストが観客である我々に対して、「愛」を表明してくれるのは嬉しいことではある。でも何だか苦手なのである。例えが適切かどうかは分からないが、「告白したら余裕で付き合えそうな相手」に対して、「愛してる」と言っているような気がしてならないのだ。恋は盲目とはよく言ったものだが、まさに「盲目」を感じてしまう瞬間であり一歩引いてみてしまうと何だか宗教の集まりのように思えてしまうのだ。鎮座ドープネスのリリックを借りるなら「踊ってんのか、踊らされてんのか」。「愛してるぜー」は僕にとって後者に近い感覚を覚えさせるのだ。

 

それに対抗して(?)、生まれたのが「愛し合ってるかい?」 by忌野清志郎なのではないか。彼は観客に一方的に意見を発したのではなく、疑問を投げかけたのだ。今ここにいる君たちは周囲の人と愛し合ってますか?と。また清志郎本人と何か分かち合えていますか?と。僕は「愛してるぜー」より「愛し合ってるかい?」が何倍も好きだ。そこには押しつけは感じないし、思考のストップ(盲目)がないのだ。もちろん清志郎だって「愛してます」ってよく言っていたわけだし、「愛してるぜー」を全面否定するつもりはない。ただ「愛し合ってるかい?」と問いかけることがでる人間に言われる「愛してる」が僕は好きだし、そっちの方が健全だと信じているのだ。そんな「愛し合ってるかい?」を僕はとある瞬間に思い出すことになる。「三宅洋平」という男の言葉だ。

 

 

2013年は「三宅洋平」という名前をこれまで聞かなかったところから聞くようになった。もちろん場所という意味でも、メディアという意味でも、周囲の人という意味でも。7月の参議院選立候補。結果としては落選ということであったが彼が選挙という古い仕組みにもたらした効果は大きかったと考えられる。選挙序盤から「選挙フェス」と銘打って渋谷ハチ公でライブ&演説を行うなど、選挙に新しいスタイルを持ち込んだ。結果として事前のネット予想では上位に名前が挙ったり、後にNHKまで特集されたりもした。選挙におけるネット解禁というトピックも後押しして、彼の名は一気に世の中に知られることになる。よくミュージシャンがメジャーデビューして有名になることを疎むファンがいるし、僕もそんな感情を抱いたことがないと言えば嘘になるが、今回「三宅洋平」の名前が拡がって行くことは、僕にとって快感だったし、心の底から彼を応援した。普段は観にいくことなんてない選挙演説に自ら足を運んだし、今まで以上に色んな情報を収集した。何なら彼のファウンディングパーティーも友達を誘って、踊りに行って募金もした。もともと政治に対する参加欲は低い方ではなかったので毎回投票には行っていたし、事前に党の政策や候補者のパーソナリティーに対する情報収集を行って、自分なりに少し考えてから投票に行くということは以前から行っていたが、誤解を恐れずに言えば、今回の選挙は僕にとって「コンテンツ」として魅力的だった。皆が知っている巨大なフェスに知り合いのバンドの参戦が急遽決まったときのような感覚に近かった。

 

僕が「三宅洋平」を聴くようになったのはかれこれ10年くらい前。クラブにも行くし、ロックも好きだしみたいな僕にとって、犬式というバンドが主催していた「nbsa」というイベントは魅力的だった。ちょっとアングラな匂いがしたし、下北沢とか渋谷ではなくて「from吉祥寺」というところが田舎者の僕にとって本当の東京の匂いがした。それからしばらくして犬式が解散することになり、三宅洋平はソロライブを頻繁に行うようになる。まさに犬式と(仮)ARBTRUSの間の期間。彼がきっかけで色んな新しいことに興味を持つようになった。音楽の深堀りもそうだし、政治的なことも、生き方そのものまでも。もともと彼の声が好きで、彼のスタイルが好きだった。原発に対する活動や彼の発言からしていつか政治的な場面に一発かましてくれるのではないかと漠然とした予想は持っていた。僕が彼を信頼できると思った瞬間はとあるフェスでの彼のある一言だった。僕はハッとさせられた。あれは2010年の音泉温楽だった。一字一句覚えているわけではないが、内容としてはこんなことを言っていた。「僕は僕の考えを話すけれど、押しつけたいわけではなくて、これを聞いてそれぞれで考えればいいと思う。だから発言する」というような内容だった。

僕はそのときまさにこう思った。「あ、これ“愛し合ってるかい?”と同じだ」と。そのときから「漠然とした憧れ」を少し改め、彼の言っていることに本当の意味で向き合うようになった。彼は保守的な人からすれば、割と激しいと捉えられることも言うし、なんだか一時期キリストのような容姿だったし(髪型とか髭とか)、それも含めてカリスマ性があるし、しっかりと自分が考えていることを発言するから、確固たる考えがあって、それを力強く発信している人間に思われる節がある。つまり「愛してるぜー」的な人。100%間違っているわけではないが、それだけでは三宅洋平を半分も理解できていないと思う。三宅洋平は「愛し合ってるかい?」側の人間だ。選挙なんて出るとっくの前から彼はこのスタンスでやっているのだ。「おれこう思ってるんだけど、どう?」というような具合だ。彼はもちろん現在の政治に対して色んな危惧を持っていると思う。僕だって持っているし、今の日本人なら多かれ少なかれ持っているんだろう。それについて「どう思ってんの?」を彼は皆で考えたいし、考えるべきだと思っている人なのである。

 

「というわけで、三宅洋平を応援しよう」

 

とは僕は絶対言わない。ここからが今日僕が本当に話したかったことだ。本題に移るまで長く時間がかかってしまったが、もう少しだけお付き合い頂きたい。

僕は三宅洋平を応援した。彼の「愛し合ってるかい?=ちゃらんけしようぜ!」に全面的に賛成した。「愛してるぜ」の押しつけでなかったから、僕は彼の言葉を信じたし、敢えて彼の意見を鵜呑みにせず、彼の言っていることに対して自分なりに答えを出そうとした。間違っているかもしれないけれど、自分なりに考えた。ここで僕がもしこの意見を他人に押し付けて「三宅洋平」を応援しようと言ったら、それは「愛してるぜー」なのである。僕が何だか苦手な例のアレである。僕は「愛し合ってるかい?」をしたいし、それに賛同したいと思っている。だからこそもう結論を言ってしまおうと思う。ぶっちゃけてしまおうと思う。今年の三宅洋平に関する動きの中で、あまりにも多くないか、三宅洋平を「愛してるぜー」側だと思っている人間。さらに言えば「愛してるぜー」の対象だけを変えた人間が。彼を支持することだけで思考を止めている人間が僕の周りには少なからずいた。「何もしないよりはまし」と言われればそこで議論は終了する。もちろん何もしないよりは何かした方がいいと僕だって思っている。でも、どうせ何かするなら良い方に向かう努力をしようという話。人に任せっきりだったから今こんな感じになってるんだから、それを繰り返していることに気づかずに「今おれは時流にのってるぜ」的な人間が結局一番危ないと僕は思う。単なる表面的なことだけで、誰かを応援したとする。それは今まで巨大な何かに頼ってきたこととやっていることは同じ、あるいは同じでなくてもそれに近い。少なくても三宅洋平はそんなことを求めてないし、「面倒くさいことを皆でしよう」と提案しているのである。最後にこないだフジロックのオフィシャルカメラマンである宇宙大使スターさんも言っていた本質的だと思ったコメントを紹介。「本当民主主義ってめんどくさいねーでもそこが楽しい」そう面倒くさい。「愛し合ってるかい?」は面倒くさい。楽ではない。時間をかけないといけない。考えないといけない。だからこそ楽しい、と感じられる瞬間があるのではないか。最後に自戒を込めて。「愛し合ってるかい?」